また図書館で借りた本です。(笑) |
ノートを取ったことはあります。
「お前はああいう環境のことをなにひとつ知らない。
お前にはそれについて語る資格なんてない」
と思ったからです。
しかし私はいつもそのあとで気づきました。
それが想像力の欠如をかくすアリバイにすぎないと。
実を言えば、事物があるがままの姿で、人を感化するとか、
なにかを教えてくれるといったことさえ稀なのです。
私たちの頭脳の働きは、いささかコンピューターのそれに似ています。
ただ、入力は、私たちがわざわざやらなくても自然になされるんです。
そこから出てくるものが創造なのです。
――ジャン=ルイ・ド・ランビュール編 『作家の仕事部屋』(岩崎力訳・中公文庫)p.260-261 クリスチアーヌ・ロシュフォールのインタビューより
* * *
ずっと密かに感じていたことを、ズバリと言い当てている言葉に出会いました。まさに冒頭部と同じことを思い、「情報を詰め込まなくては」と焦り、たらふく詰め込んでは何も書けなくなったことが幾度となくあります。そしてそれらの情報はすぐに忘れてしまい、身につくことはありませんでした。
ただ、それが想像力の欠如を隠す行為だということは、無名の創作者が言えばまるで「負け犬の遠吠え」で、「怠け者の自己弁護のように聞こえる」ことを怖れて言葉にできませんでした。
でもわが身を振り返ると、「情報を詰め込まなくては」という焦りは、自信が持てないときの、まさに「アリバイを用意しておかなくては」という恐れだったように思います。まるで「たくさん勉強したんだから偉いよね」と免罪符にでもできるかのように。そしてその虚しさも同時に感じていました。創作をするとき、やりたいのはそれではないからです。結果的に知識が増えるとしても、それが先ではないのです。今回見つけた言葉には救われました。
フィクションのレビューで、「よく調べて書いている」などと書かれていることがあります。自分の目には、ある意味最大の侮辱に見えます。でも世間一般では、「情報小説」のたぐいは評価が高く、上記も素直に誉め言葉のつもりで書かれているのかもしれません。しかし情報量と感動の大きさが比例するわけではありません。
量の多寡で何かを評価することの危うさが、ここにもあります。