読みやすさのために適宜改行や強調(太字化)を加えています。

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2021/09/30

「読むことと書くことが同時に進みます。」



…すなわち、先ず、歴史家は資料を読み、

ノートブック一杯に事実を書きとめるのに長い準備期間を費やし、
次に、これが済みましたら、資料を傍へ押しやり、ノートブックを取り上げて、
自分の著書を一気に書き上げるというのです。

しかし、こういう光景は私には納得が行きませんし、
ありそうもないことのように思われます。

私自身について申しますと、
自分が主要資料と考えるものを少し読み始めた途端、
猛烈に腕がムズムズして来て、自分で書き始めてしまうのです。

これは書き始めには限りません。どこかでそうなるのです。
いや、どこでもそうなってしまうのです。

それからは、読むことと書くことが同時に進みます。
読み進むにしたがって、書き加えたり、削ったり、書き改めたり、除いたりというわけです。

また、読むことは、書くことによって導かれ、方向を与えられ、豊かになります。
書けば書くほど、私は自分が求めるものを一層よく知るようになり、
自分が見いだしたものの意味や重要性を一層よく理解するようになります。

恐らく、歴史家の中には、ペンや紙やタイプライターを使わずに、
こういう下書きはすべて頭の中ですませてしまう人がいるでしょうが、これは、(.中略..)

しかし、私が確信するところですが、歴史家という名に値いする歴史家にとっては、
経済学者が「インプット」および「アウトプット」と呼ぶような
二つの過程が同時進行するもので、
これらは実際は一つの過程の二つの部分だと思うのです。

みなさんが両者を切り離そうとし、一方を他方の上に置こうとなさったら、
みなさんは二つの異端説のいずれかに陥ることになりましょう。
意味も重要性もない糊と鋏の歴史をお書きになるか、
それとも、宣伝小説や歴史小説をお書きになって、
歴史とは縁もゆかりもないある種の文書を飾るためにただ過去の事実を利用なさるか、
二つのうちの一つであります。


――E. H. カー 『歴史とは何か』(清水幾太郎訳・岩波新書)p.37-38


2018年3月22日 (木)元投稿]
(「ココログ「としま腐女子のいろいろ読書ノート」より引っ越し)

2021/09/23

「僕が言っているのは、 ネガティヴ・ケイパビリティ(受容する負の能力)というものだ。」

John Keats by Benjamin Robert Haydon
[National Portrait Gallery, London (public domain)]

僕が言っているのは、
ネガティヴ・ケイパビリティ(受容する負の能力)というものだ。

先の読めない状況や、理解を超えた神秘や、
疑念のなかに人があるとき

事実だの、理屈だのを求めて苛立つことなく、
その中にたたずんでいられる、

その能力のことだ。

――ジョン・キーツ 1817年12月22日 ジョージ&トマス・キーツへの手紙より
(下記パブリック・ドメイン テキストより拙訳)


—I mean Negative Capability, that is, when a man is capable of being in uncertainties, mysteries, doubts, without any irritable reaching after fact and reason.

John Keats  (to George and Thomas Keats, 
December 22, 1817)
from "Letters of John Keats to His Family and Friends"


[2015年2月21日 (土)元投稿]
(「ココログ「としま腐女子のいろいろ読書ノート」より引っ越し)

2021/09/17

「小説は、まさに、統御された阿片の旅である。」



小説は「ヴィジョンを拡げる」効果を発揮する。

われわれの日常の意識は、侠角レンズのカメラのように狭い。
こういったカメラは、
クローズアップの非常に優れた写真をとることはとるが、
その範囲は極めて限られているのである。
一方、プロの写真家は広角レンズをカメラにつけて、
パノラマ的な全景を写し出す。
そして、"これ"こそまさに
小説によって意識の上に作り出される効果を説明しているのである。

つまり小説は、精神に広角レンズをとりつけるのである。
小説はわれわれに、まるでカメラがぐっと空中高く舞い上り、
突然田園一帯を写し出すように、「後退する」ことを可能にする。
もちろんわれわれは、抽象的な意味では
こういったものが存在していることを常に知っている。
しかし日常という狭角レンズは、
われわれがそれをはっきり見えないようにしてしまっているのだ。

多くの阿片吸引者たちが、これと同じ効果――
山なみや大海原のはるか彼方に翔け上がるような――を記している。
しかし阿片のときのヴィジョンは、夢の持っている、
こちらではどうにもならないという性質を持っている。

ところが小説は、まさに、統御された阿片の旅である。
それは広角的な意識を作り出す工夫なのである。


コリン・ウィルソン『小説のために -想像力の秘密』(鈴木建三訳・紀伊国屋書店 p.88)


2013年1月20日 (日)元投稿]
(「ココログ「としま腐女子のいろいろ読書ノート」より引っ越し)

2021/09/11

「ぼくとぼくの生きかたは…」



「ぼくとぼくの生きかたは
ぜんぜん反りが合ってないような気がする」
彼はつぶやいた。

「なにか言ったかね?」
老人が穏やかに尋ねた。

「ああ、いえ」とアーサー。
「ただの冗談です」


ダグラス・アダムス『銀河ヒッチハイク・ガイド』(安原和見訳・河出文庫)p.259)


2012年3月17日 (土)元投稿]
(「ココログ「としま腐女子のいろいろ読書ノート」より引っ越し)

2021/08/27

「優雅な散文とは」




散文は舞踊ではない。

散文は歩む。

そしてその歩み、あるいは歩み方によって、
その所属する種族が判明する。
頭に荷物をのせて運ぶあの住民に
ふさわしい均衡のように。

ここから次のようなことをぼくは考える。

つまり優雅な散文とは、
作家が頭の中で運んでいる
荷物の重みと相関するものであり、
これ以外の優雅さは
単に振付けの結果によるものに
過ぎないということだ。


ジャン・コクトー『言葉について』(秋山和夫訳:『ぼく自身あるいは困難な存在』所収・ちくま学芸文庫)pp.187-188


2012年1月24日 (火)元投稿]
(「ココログ「としま腐女子のいろいろ読書ノート」より引っ越し)

2021/08/23

「愛され賛美されたいと思うのは」



「人を愛し賛美するのは弱さじゃないわよ!」

「だけど愛され賛美されたいと思うのは弱さよ、ネル――私みたいな芸術家肌の人間が毒されやすい感情よ。(……)」

(アイリーン・アドラーの台詞より)


キャロル・ネルソン・ダグラス『おやすみなさい、ホームズさん(下)』(日暮雅通訳・創元推理文庫)p.221


[2011年12月23日 (金)元投稿]
(「ココログ「としま腐女子のいろいろ読書ノート」より引っ越し)

2021/07/15

「自分がもっとも自分となるような」

 …天才のもつ健全な自惚がロレンスに欠けていたことが、
かれの生涯を悲劇的な浪費におわらせた根本原因の一つである。

(中略)ケニントンは、まったく他人の、
千里眼のきく老教師に『智慧の七本の柱』を
見せたときのことをこう述べている。
それを読んでの教師の感想は――

「この本を読んで、わたしは胸が痛んだ。
これを書いた人は、わたしの知るかぎりでは
もっともずばぬけた大人物だが、
この人はおそろしくまちがっている。
自分が自分でないのだ…(中略)

わたしは心配でならない。
この人は行動のなかで生きてはいない。(中略)」

この感想は、ロレンスの根底を衝いているのみか、
「アウトサイダー」一般の性格を的確に表現している。

「この人は行動のなかで生きていない」――
まさにムルソーとクレブスである。
「自分が自分でない」という言葉の意味は、さらに深い。

自分がもっとも自分となるような、
つまり最大限に自己を表現できるような
行動様式を見出すのが
「アウトサイダー」の仕事であることを、
この一言は意味している。


コリン・ウィルソン『アウトサイダー』「Ⅳ制御への試み」より、T.E.ロレンスについての分析(引用は1957年刊・福田恒存/中村保男訳・紀伊国屋書店版 p.73より)


[2011年1月25日 (火)元投稿]
(「ココログ「としま腐女子のいろいろ読書ノート」より引っ越し)

2021/07/05

「枯らすなら おまへの墓場で枯らしたいから」



 私の深い悲しみの庭の中に
 ああ 見捨てられた私の心よ、おまへもおんなじだ、
 かまひてもないが凋(しぼ)みもしない
この貧しい詩の花も さうなのだ

とぢてしまつたおまへの眼を、昔うれしがらせたこの花を、
 おまへの墓場に植ゑさせてくれないか。
 よしや咲きさかる時がなからうとも、
枯らすなら おまへの墓場で枯らしたいから


テニスン『イン・メモリアム』 No.8より(入江直祐訳・岩波文庫)p.40
(早世した親友アーサー・ハラムを悼む詩の一部です)


[2010年10月 3日 (日)元投稿]
(「ココログ「としま腐女子のいろいろ読書ノート」より引っ越し)



2021/06/23

「なぜ万人が美しと感ずるものを」

それにしても、人間というものは、

なぜ万人が美しと感ずるものを
文字に書こうとするのだろう。

だれも味解などできもしないくせに?


ジョン・ポリドリ『吸血鬼』 (平井呈一訳:『怪奇幻想の文学Ⅰ 深紅の法悦』 所収 ・新人物往来社)p.40


[2010年8月18日 (水)元投稿]
(「ココログ「としま腐女子のいろいろ読書ノート」より引っ越し)

2021/06/09

「頭と手を使える仕事を」

なんでもいい。

頭と手を使える仕事を見つけなければならない。
さもなければ気が狂ってしまう。

ジョン・メトカーフ 『死者の饗宴』 ( 桂千穂訳:『怪奇幻想の文学Ⅰ 深紅の法悦』 所収 ・新人物往来社)p.286


[2010年8月18日 (水)元投稿]
(「ココログ「としま腐女子のいろいろ読書ノート」より引っ越し)


*       *       *


*吸血鬼もののバリエーションで古典的なものが収録されたアンソロジーです。JUNE的・耽美的な作品がお好みのには特におすすめです☆

リンクしたアマゾンは(投稿時点では)古書が高騰しているようなので、同作が表題となっている短編集にもリンクしておきます。


自分ももともと古書で入手しましたが、こんな値段だったらとても買えませんでした。(^^;)(現在物置から探し出す時間がなく、写真が撮れなくて残念です☆)ほんとに素敵なアンソロジーなので、なんらかの形で再版してほしいです。

2021/06/02

「人の説で知ったり、人の説で考えたりするために……」


 

「…きみはほんとにきみのその目その耳を、
きみの周囲の日常生活に対してしっかり開いておらんぞ。

世の中には、きみの知らんことが山ほどあるということ、
自分の見ないようなことを見ている人があるということを、
きみは考えておるか?

人の説で知ったり、人の説で考えたりするために、
肝心のその人間の目で見ないでいることが、
世の中にはたくさんあるのだぜ」


(ヴァン・ヘルシング教授の台詞より)
ブラム・ストーカー『吸血鬼ドラキュラ』(平井呈一訳・創元推理文庫 p.287 )


[2010年4月15日 (木)元投稿]
(「ココログ「としま腐女子のいろいろ読書ノート」より引っ越し)



2021/05/27

「美しいものの観想が心に生み出す満足感」

 …しかし私自身としては美という言葉によって、

物体に備わっていて我々に愛もしくはそれに似た種類の
情念を生み出す一つもしくはそれ以上の性質
である
と定義する。

(中略)同じ趣旨にもとづいて私は愛という言葉
(これによって私が意味するものは、その本性が
何であるかを問わずすべて美しいものの観想が
心に生み出す満足感のことである)
を、欲望ないし色欲と区別する。

欲望は我々を駆って或る対象の占有へと向かわせる
心の活動力であって、それは決して対象が
美しいという理由で我々を刺激するのではなく、
それとは全く別の原因からである。

我々が特別美しくもない女性に対して
強い欲望を感ずることもあろうし、
その反面で同性たる男性もしくは他の動物に
備わる美に対して愛を感じはするが
些かも欲望を感じない場合もあろう。

この事実は美それ自体ないし美が生み出す
愛と呼ばれる情念が、たとえ時折は欲望と平行して
作用することがあっても
決して欲望と同じものではないことを立証する。



エドマンド・バーク『崇高と美の観念の起源』/第三編/一 美について(『エドマンド・バーク著作集1』中野好之訳・みすず書房p.99~100)


[2010年2月21日 (日)元投稿]
(「ココログ「としま腐女子のいろいろ読書ノート」より引っ越し)


*       *       *


*エドマンド・バークは18世紀の人です。今読むとどうしようもない男性中心主義が鼻につきますが、時代の限界と割り引いて読むしかないです。(笑)この、欲望を伴わない美から得られる満足感、というのはとても身近なものですし、男性・女性と断定的に書かれたところをもっと自由に読みほどくと、自分には「BLとは違うJUNE」にも通じるものが感じられました。

余談:バークは妻帯していましたが、密かに同性愛者だったという研究もあるそうです。
THE NEW YORKER -The Right Man: Who owns Edmund Burke?
そう思うと、引用した一節からJUNEが香ったのは必然かもしれませんし、境界はなくてグラデーションだという気もします。どちらにしろ、この時代同性愛はもちろん大罪ですし、もともと「ホモソーシャル」な社会に生きた人ですから、ありがちといえばありがちな「設定」。今の目で昔の人物をまるごととらえるのはとても難しいことです。研究は専門の方にお任せして、今は言葉尻(?)を味わっておきます。



2021/05/19

「おお、フランケンシュタイン!寛容と献身の人よ!」

 


☆ネタバレご注意☆
小説『フランケンシュタイン』後半部の展開がわかる引用です
※蛇足ながら、「フランケンシュタイン」は怪物(人造人間)を作った人物の名前です。以下はその怪物が自分を作った「創造主」に対する感情を吐露する場面で、彼の苦悩が凝縮されていると思います。語り手は第三者です。


相手は止まって、驚いたようにぼくを見ました。
それからまた創り主の息絶えたからだに目をやると、
ぼくのことなど忘れたように、顔つきもしぐさも、
何か抑えのきかない激情に揺り動かされた様子でした。

「これもまたわが犠牲!」
と彼は叫びました。

「彼を殺しておれの罪は完成された。
このみじめな生もやっと終わりにたどりついたのだ!
おお、フランケンシュタイン! 寛容と献身の人よ!

今さら赦しを請うて何になる?
自分がしたのはとりかえしもつかぬこと、
おまえの愛する者すべてを滅ぼして
おまえを滅ぼすことだったのだ。

ああ、もう冷たい。答えてはくれない」

メアリ・シェリー『フランケンシュタイン』(森下弓子訳・創元推理文庫p.291)


[2010年2月14日 (日)元投稿]
(「ココログ「としま腐女子のいろいろ読書ノート」より引っ越し)


*       *       *


*関連コンテンツ*

フランケンシュタインはとても好きな作品で、ほかでも関連コンテンツを(結果的に)作っております。よかったら合わせてどうぞ。


【無料電子書籍】(BOOTH・kindle形式)
フランケンシュタイン:ナショナルシアターライブ レビュー

英国で上演された舞台版フランケンシュタイン(ベネディクト・カンバーバッチ&ジョニー・リー・ミラーのダブルキャスト)を、日本でのライブビューイングで見比べたレビューです。原作からの脚色部分なども書いております。大変すばらしい舞台でした!


【ブログ】ピーター・カッシング~怪奇と耽美と美老人~:
『フランケンシュタイン・恐怖の生体実験』(1969)を再見

1950-70年代のハマー映画シリーズでフランケンシュタインを演じた、ピーター・カッシングのファンブログをやっております。(現在はお誕生日の5/26頃に更新する程度です)

ハマーのフランケンシリーズは原作小説とはかなり別物になっていますが、その中で一番好きな『…恐怖の生体実験』のレビューにリンクを張りました。「これはこれ」として超おすすめです❤

シリーズ一作目の『フランケンシュタインの逆襲』(小説の脚色作品。なぜか一作目なのに邦題は「逆襲」)の感想が見当たらず、探したらブログ以前の日記にメモ程度に書いたきりのようです。自分でも意外です☆




2021/05/12

「資質の最上のものが表にあらわれるため」



セイラはニールが会った女性のなかで、

態度が少しも変わらないはじめての相手だった。

ニールの足をはじめて見たとき、表情は少しも変わらず、
哀れみや恐怖や驚きすら示さなかった。
その理由だけでも、ニールが彼女に夢中になるのは予想できたことだった。

セイラの人となりのあらゆる側面を目にするころには、
ニールは彼女にぞっこんになっていた。

そして、セイラといっしょにいると、
ニールの資質の最上のものが表にあらわれるため、
彼女もニールに恋した。

テッド・チャン『地獄とは神の不在なり』(古沢嘉通訳・『あなたの人生の物語』[浅倉久志・他訳]・早川書房 p.399)


[2010年2月 4日 (木)元投稿]
(「ココログ「としま腐女子のいろいろ読書ノート」より引っ越し)




*横浜ワールドコンでサインをいただいた思い出の一冊でもあります。大事にしていたのに変色してきているのがショック。奥付を見たら2003年発行なので、もう18年も経つのですね…。


【関連サイト】
作家さんのファンなのですが、ご本人のサイト等がないので、2007年から自サイト内にゆる~いファンページ(?)を作って情報を記録しています。よかったら合わせてどうぞ。

テッド・チャンさん備忘録(PC仕様のままのページです)

最近の更新は、モバイル表示に対応できるよう、



でも同記事をアップしています。スマホの場合は少し見やすいかもしれません。長文が多めなので、見やすいほうでご覧くださいませ。

2021/05/05

「魂ほど移動に時間のかかるものは無い」




あちこち駆けずりまわったり、
性急にぼくらの品物をそっくり別の場所へ移したり、
仕事を自分の気に入るように一分間で変えたりすれば、
ぼくらは必ず何かを失くしてしまう。

魂ほど移動に時間のかかるものは無い。

だから一度場所を変えると、魂と肉体が再会するには、
きわめて手間がかかる。

自分は敏捷だと思い込んでいる人々は、
わけがわからなくなってしまう。

多くの場合、魂が足を引っぱるので両者はなかなかうまく再会できない。


ジャン・コクトー『魂の操舵について』(秋山和夫訳・『ぼく自身あるいは困難な存在』所有・ちくま学芸文庫 p.148)


[2009年10月21日 (水)元投稿]
(「ココログ「としま腐女子のいろいろ読書ノート」より引っ越し)

2021/04/29

「心一杯に懺悔して」



心一杯に懺悔して、

恕(ゆる)されたといふ気持ちの中に、再び生きて、

僕は努力家にならうと思ふんだ——


中原中也『(吹く風を心の友と)』(『中原中也詩集』・新潮社・未刊詩篇 p.235)


[2009年9月21日 (月)元投稿]
(「ココログ「としま腐女子のいろいろ読書ノート」より引っ越し)


*国語の授業でもらったプリントで初めて読んだ詩のなかの一節です。学校教材というだけで反感を抱きがちな生徒だったのですが(笑)、このへんの詩(中也さんのほかに萩原朔太郎さん、茨木のり子さんなど)は自力では手を出さない分野だったので、知ったきっかけはいずれも国語のプリントでした。ずいぶん昔のことですが、当時の先生に感謝です❤(^^)

2021/04/21

「他人に聞いてもらうことではなく、 正気を保つことによってこそ」

奇妙なことに、時報が彼に新たな勇気を注入したようだった。
自分は誰も耳を貸そうとしない真実を声に出す孤独な幻。
しかし声を出している限り、
何らかの人目につかない方法によってでも、
真実の継続性は保たれる。

他人に聞いてもらうことではなく、
正気を保つことによってこそ、
人類の遺産は継承されるのだ。

彼はテーブルに戻り、
ペン先をインクに浸し、
書いた――


ジョージ・オーウェル『一九八四年〔新訳版〕』(高橋和久訳・早川書房)p.45


[2009年7月26日 (日)元投稿]
(「ココログ「としま腐女子のいろいろ読書ノート」より引っ越し)


☆じつは大好きな英国俳優ジョン・ハートやピーター・カッシングの主演作品原作でもあるので、そちらのご紹介も含めた感想を個人ブログの方にアップしております。ちょっと前の記事ですが、よかったら合わせてご覧ください☆

「人は愛されるより理解されることを望むものなのだろうか」/『一九八四年』新訳版
(牛乃の日記:2013/06/04)


2021/04/15

「全体像が見えている時は、 人間は簡単にはあきらめないものだ」



最初の二、三日は、
ネイグルの立てた潜水計画に厳密にしたがって〈ドリア〉に潜った。
見つからなかった。鐘はなかった。

その時点で、どんなタフなダイバーでも、
あきらめて引き返そうと考えただろう。

長さ二〇メートルの船で大西洋の外界に一日出ただけでも、
はらわたの表裏がひっくり返るほどの揺れを経験する。

長さ一〇メートルの栄光の浴槽(バスタブ)で四日が過ぎた。

が、全体像が見えている時は、
人間は簡単にはあきらめないものだ。


ロバート・カーソン『シャドウ・ダイバー 深海に眠るUボートの謎を解き明かした男たち(上)』(上野元美訳・早川書房)p.36


[2009年6月17日 (水)元投稿]
(「ココログ「としま腐女子のいろいろ読書ノート」より引っ越し)

2021/04/07

「道徳は大部分、支配階級の利益と感情から生まれたものである」

支配的な階級がある国では、その国の道徳、
つまり社会道徳は、かなりの部分、
支配的な階級の自己利益と優越感から生まれている。

古代スパルタの市民と奴隷、
アメリカの植民者と黒人、
国王と臣民、
領主と農奴、
男と女
などの関係を規定する道徳は大部分、
支配階級の利益と感情から生まれたものである。


ジョン・スチュアート・ミル『自由論』(山崎洋一訳・光文社)p.21


[2009年5月27日 (水)元投稿]
(「ココログ「としま腐女子のいろいろ読書ノート」より引っ越し)



2021/04/01

「『政治的に可能』かどうかは気にしないようにした」

 私はしばらく間をおいてから、冷ややかに答えた。

「ああ、やっとわかりました。あなたがいまいったことを、
ボリビアの友人たちに説明させてください。
あなたはシティバンクに電話して、
ボリビアの政策が適切かどうか尋ねるつもりなんですね?
つまり、IMFの債務戦略は銀行の思惑しだいということですか?」

代表団長は怒りをあらわにして本を閉じ、
立ち上がって、話し合いは終わりだった。

(中略)

ところが面白いことに、それ以後、IMFは二度とボリビアに
利子支払い再開の要求をしなくなったのだ。

(中略)

たぶん未熟さゆえだろうが、
私は赤字削減のために型破りな方法が
必要だと思っただけでなく、
それが可能だと信じた。
そんな思い込みは結局、正しかった。

それ以来、私は何が必要かという点だけを明瞭にし、
「政治的に可能」かどうかは気にしないようにした。

何かが必要なら、それは可能だし、
なんとしても実現させるべきなのだ!


ジェフリー・サックス『貧困の終焉~2025年までに世界を変える~』(鈴木主税/野中邦子訳・早川書房)p.161、170


[2009年5月17日 (日)元投稿]
(「ココログ「としま腐女子のいろいろ読書ノート」より引っ越し)


2021/03/24

「芸術の目的は(…)個性の領域を広げることであります」




芸術を技術から区別できる意味だけから言えば、
芸術はまず何よりも個人の領域に係るものであります。

そして芸術の目的は、
それと関連した多くの偶然的技術的機能は別にして、
個性の領域を広げることであります。

それゆえ、偶々(たまたま)ある特定の人物、特定の文化におこって
独自の個性ある形をとった感情、情緒、挙措、価値などは、
他の個人や他の文化に力強く有意義に伝達されうるのであります。

共感と感情移入は芸術特有の方法であり、
いわば他の人間の奥深い体験をともに感じること、
そのなかに感入することである。

芸術作品とは人間がそこから自分の体験の
底流をなす水源をともにすることのできる、
目に見え飲みほすことのできる泉であります。


ルイス・マンフォード『芸術と技術』(生田勉訳・岩波新書)p.17
昭和40年発行(初版は昭和29年)の古書より、旧字体を適宜改めて引用しました。
その後『現代文明を考える―芸術と技術』というタイトルで講談社学術文庫でも発行されています。


[2009年5月 4日 (月)元投稿]
(「ココログ「としま腐女子のいろいろ読書ノート」より引っ越し)

2021/03/18

「もしあるタイプの小説を読むことに耐えられないのなら」



私が書き始めた頃、一般に新人作家にとって最適で、
もっとも受け容れられやすい市場は
“告白”雑誌だと見なされていた。
原稿料も高かった。

(…)何度か告白雑誌を買うか借りるかして、
最後まで読み通そうとした。が、できなかった。
あれだけ読んだうちのただのひとつも、
すっ飛ばさずには読めなかった。
読んでいるものに集中できなかった。
表表紙から裏表紙まで、雑誌全体が
魂を腐らせるゴミでしかないという
確信を振り払えなかった。

(…)告白ものはだめだと思っていたら、
ある週末、締め切りが迫っていて
早急に穴を埋めなければならない出版社のために
三篇書くことになった。
三篇とも出来はひどかった。
私は仕事を与えられたから書いただけ、
出版社はそうせざるを得なかったから出版しただけ。
これほどつらい原稿料はなかった。

ほかの分野で似たような経験をした書き手が
何人もいるのを知っている。
教訓はしごく単純だ。
もしあるタイプの小説を読むことに耐えられないのなら、
それを書こうとするのは時間の無駄である。


ローレンス・ブロック『ローレンス・ブロックのベストセラー作家入門』(田口俊樹/加賀山卓朗訳・原書房)p.26-27


[2009年4月 1日 (水)元投稿]
(「ココログ「としま腐女子のいろいろ読書ノート」より引っ越し)


2021/02/26

「文学はすべて無名の状態を目ざす」



 本の著者の名前を知りたいと思うだろうか?

この質問には、意外に深い問題がひそんでいる。

…(中略)『老水夫行』を読んでいるときのわれわれは、
天文学も地理学も日常の倫理も忘れている。
著者のことも、忘れてはいまいか。…(中略)
この詩を読む前後にこそ思い出しはしても、
読んでいるあいだは詩そのものしか存在していないのではないか。

それなら、『老水夫行』を読んでいるあいだに、
この詩にはある変化が起きたのである。
「サー・パトリック・スペンスのバラッド」と同じく、
作者不詳と化したのだ。

これで私の結論は出る。
文学はすべて無名の状態を目ざすのであり、
言葉に創造力がありさえすれば、
署名はその真の価値から注意をそらさせるだけだ、
ということである。

…(中略)創造主を忘れるというのも、
創造されたものの機能のひとつなのだ。


E.M.フォースター『無名ということ』(小野寺健編訳・『フォースター評論集』所収・岩波文庫)p.39,47-48


[2009年3月14日 (土)元投稿]
(「ココログ「としま腐女子のいろいろ読書ノート」より引っ越し)

2021/02/24

「手を動かすことで創造力が」

芸術家が創作を開始したとき、

頭の中に明確な最終イメージを持っていることはほとんどない。


(…)私にとってビジュアライゼーションの本当の作業は、

すべて、下書きと修正のなかにあった。

思うに、想像力は手を動かすほどの力を持っていないが、

もの作りに熱中しているとき、

手を動かすことで創造力が刺激された経験を持つ人は多いだろう。


スティーブン・T・キャッツ『映画監督術 SHOT BY SHOT』(津谷祐司訳・フィルムアート社)p.14


[2009年2月28日 (土)元投稿]
(「ココログ「としま腐女子のいろいろ読書ノート」より引っ越し)

2021/02/17

「行為の結果を動機としてはいけない」




あなたの職務は行為そのものにある。

決してその結果にはない。

行為の結果を動機としてはいけない。

また無為に執着してはならぬ。


バガヴァッド・ギーター』(上村勝彦訳・岩波文庫)p.39


[2009年2月25日 (水)元投稿]
(「ココログ「としま腐女子のいろいろ読書ノート」より引っ越し)

2021/02/05

「〈知ること〉はすべて、〈知る人〉の構造にかかっている」



〈知ること〉[認識]はすべて

〈知る人〉[認識者]によるアクションなのだ、

ということに気づく。
それが、われわれの出発点だった。

つまり、いいかえれば、
〈知ること〉はすべて、
〈知る人〉の構造にかかっているのだということに。


ウンベルト・マトゥラーナ/フランシスコ・バレーラ『知恵の樹 生きている世界はどのようにして生まれるのか』(管啓次郎訳・ちくま学芸文庫)p.39


[2009年2月23日 (月)元投稿]
(「ココログ「としま腐女子のいろいろ読書ノート」より引っ越し)

2021/02/02

「さようなら、いとしい王子さま」




 ツバメは最後の力をふりしぼって、もういちど王子の肩にとまりました。

「さようなら、いとしい王子さま」
とツバメはつぶやきました。
「王子さまの手にキスをしてもいいですか」 

「いよいよエジプトに行くのだね。安心しました。小さなツバメさん」
と王子はいいました。

「ここに長くいすぎたよね。
でも、手ではなくて、わたしのくちびるにキスしておくれ。
わたしもあなたを愛しているのだから」 

「ぼくがこれから行くのはエジプトではありません」
とツバメはいいました。

「ぼくが行くのは死の家です。死は眠りの兄弟です。そうですね」
そういってツバメは王子の唇にキスをしました。
そして王子の足もとに落下して息たえました。


オスカー・ワイルド『幸福な王子』(大橋洋一監訳:『ゲイ短編小説集』所収・平凡社)p.109-110


[2009年2月21日 (土) 元投稿]
(「ココログ「としま腐女子のいろいろ読書ノート」より引っ越し)


2021/01/28

「自分の頭がなくなったと想像してみよう」

 自分の頭がなくなったと想像してみよう。

そう、そして周囲を見渡してみる、ただし、頭がない状態で。

体が肩までしかないと想像するのだ。

もう、目で見るのではなく、合理的な頭脳で見るのでもない。

今見ている世界を頭にとってかえてみる。

世界があなたの頭なのだ!



ヘンリー・リード『エドガー・ケイシー:超能力開発のすすめ』(上牧弥生訳・中央アート出版社)p.47


[2009年2月19日 (木)元投稿]
(「ココログ「としま腐女子のいろいろ読書ノート」より引っ越し)



「電子は電荷を帯びた最も軽い粒子である」

電子は電荷を帯びた最も軽い粒子である。

私たちの手足、体の特徴、あらゆる固体の形は

原子の周辺部を回転する電子で決まっている。



フランク・クロース『自然界の非対称性』(はやしまさる訳・紀伊国屋書店)p.118


[2007年11月20日 (火) 元投稿]
(「ココログ「としま腐女子のいろいろ読書ノート」より引っ越し)



2021/01/26

「冷笑主義的態度(シニシズム)は、ここでは不要だ」




冷笑主義的態度(シニシズム)は、ここでは不要だ。

オスカー・ワイルドがかつて述べたように、

冷笑家とは、すべてのものの値段は知っていても、

どんなものの価値も知らない人間のことなのだから。



E・W・サイード『知識人とは何か』(大橋洋一訳・平凡社ライブラリー) p116


[2007年11月20日 (火) 元投稿]
(「ココログ「としま腐女子のいろいろ読書ノート」より引っ越し)