…しかし私自身としては美という言葉によって、
物体に備わっていて我々に愛もしくはそれに似た種類の
情念を生み出す一つもしくはそれ以上の性質である
と定義する。
(中略)同じ趣旨にもとづいて私は愛という言葉
(これによって私が意味するものは、その本性が
何であるかを問わずすべて美しいものの観想が
心に生み出す満足感のことである)
を、欲望ないし色欲と区別する。
欲望は我々を駆って或る対象の占有へと向かわせる
心の活動力であって、それは決して対象が
美しいという理由で我々を刺激するのではなく、
それとは全く別の原因からである。
我々が特別美しくもない女性に対して
強い欲望を感ずることもあろうし、
その反面で同性たる男性もしくは他の動物に
備わる美に対して愛を感じはするが
些かも欲望を感じない場合もあろう。
この事実は美それ自体ないし美が生み出す
愛と呼ばれる情念が、たとえ時折は欲望と平行して
作用することがあっても
決して欲望と同じものではないことを立証する。
エドマンド・バーク『崇高と美の観念の起源』/第三編/一 美について(『エドマンド・バーク著作集1』中野好之訳・みすず書房p.99~100)
* * *
*エドマンド・バークは18世紀の人です。今読むとどうしようもない男性中心主義が鼻につきますが、時代の限界と割り引いて読むしかないです。(笑)この、欲望を伴わない美から得られる満足感、というのはとても身近なものですし、男性・女性と断定的に書かれたところをもっと自由に読みほどくと、自分には「BLとは違うJUNE」にも通じるものが感じられました。
余談:バークは妻帯していましたが、密かに同性愛者だったという研究もあるそうです。
(THE NEW YORKER -The Right Man: Who owns Edmund Burke?)
そう思うと、引用した一節からJUNEが香ったのは必然かもしれませんし、境界はなくてグラデーションだという気もします。どちらにしろ、この時代同性愛はもちろん大罪ですし、もともと「ホモソーシャル」な社会に生きた人ですから、ありがちといえばありがちな「設定」。今の目で昔の人物をまるごととらえるのはとても難しいことです。研究は専門の方にお任せして、今は言葉尻(?)を味わっておきます。