読みやすさのために適宜改行や強調(太字化)を加えています。

イベント参加予定

【イベント参加予定】2024/5/19 文学フリマ東京38 / 2024/5/26 COMITIA 148

2021/09/30

「読むことと書くことが同時に進みます。」



…すなわち、先ず、歴史家は資料を読み、

ノートブック一杯に事実を書きとめるのに長い準備期間を費やし、
次に、これが済みましたら、資料を傍へ押しやり、ノートブックを取り上げて、
自分の著書を一気に書き上げるというのです。

しかし、こういう光景は私には納得が行きませんし、
ありそうもないことのように思われます。

私自身について申しますと、
自分が主要資料と考えるものを少し読み始めた途端、
猛烈に腕がムズムズして来て、自分で書き始めてしまうのです。

これは書き始めには限りません。どこかでそうなるのです。
いや、どこでもそうなってしまうのです。

それからは、読むことと書くことが同時に進みます。
読み進むにしたがって、書き加えたり、削ったり、書き改めたり、除いたりというわけです。

また、読むことは、書くことによって導かれ、方向を与えられ、豊かになります。
書けば書くほど、私は自分が求めるものを一層よく知るようになり、
自分が見いだしたものの意味や重要性を一層よく理解するようになります。

恐らく、歴史家の中には、ペンや紙やタイプライターを使わずに、
こういう下書きはすべて頭の中ですませてしまう人がいるでしょうが、これは、(.中略..)

しかし、私が確信するところですが、歴史家という名に値いする歴史家にとっては、
経済学者が「インプット」および「アウトプット」と呼ぶような
二つの過程が同時進行するもので、
これらは実際は一つの過程の二つの部分だと思うのです。

みなさんが両者を切り離そうとし、一方を他方の上に置こうとなさったら、
みなさんは二つの異端説のいずれかに陥ることになりましょう。
意味も重要性もない糊と鋏の歴史をお書きになるか、
それとも、宣伝小説や歴史小説をお書きになって、
歴史とは縁もゆかりもないある種の文書を飾るためにただ過去の事実を利用なさるか、
二つのうちの一つであります。


――E. H. カー 『歴史とは何か』(清水幾太郎訳・岩波新書)p.37-38


2018年3月22日 (木)元投稿]
(「ココログ「としま腐女子のいろいろ読書ノート」より引っ越し)

2021/09/23

「僕が言っているのは、 ネガティヴ・ケイパビリティ(受容する負の能力)というものだ。」

John Keats by Benjamin Robert Haydon
[National Portrait Gallery, London (public domain)]

僕が言っているのは、
ネガティヴ・ケイパビリティ(受容する負の能力)というものだ。

先の読めない状況や、理解を超えた神秘や、
疑念のなかに人があるとき

事実だの、理屈だのを求めて苛立つことなく、
その中にたたずんでいられる、

その能力のことだ。

――ジョン・キーツ 1817年12月22日 ジョージ&トマス・キーツへの手紙より
(下記パブリック・ドメイン テキストより拙訳)


—I mean Negative Capability, that is, when a man is capable of being in uncertainties, mysteries, doubts, without any irritable reaching after fact and reason.

John Keats  (to George and Thomas Keats, 
December 22, 1817)
from "Letters of John Keats to His Family and Friends"


[2015年2月21日 (土)元投稿]
(「ココログ「としま腐女子のいろいろ読書ノート」より引っ越し)

2021/09/17

「小説は、まさに、統御された阿片の旅である。」



小説は「ヴィジョンを拡げる」効果を発揮する。

われわれの日常の意識は、侠角レンズのカメラのように狭い。
こういったカメラは、
クローズアップの非常に優れた写真をとることはとるが、
その範囲は極めて限られているのである。
一方、プロの写真家は広角レンズをカメラにつけて、
パノラマ的な全景を写し出す。
そして、"これ"こそまさに
小説によって意識の上に作り出される効果を説明しているのである。

つまり小説は、精神に広角レンズをとりつけるのである。
小説はわれわれに、まるでカメラがぐっと空中高く舞い上り、
突然田園一帯を写し出すように、「後退する」ことを可能にする。
もちろんわれわれは、抽象的な意味では
こういったものが存在していることを常に知っている。
しかし日常という狭角レンズは、
われわれがそれをはっきり見えないようにしてしまっているのだ。

多くの阿片吸引者たちが、これと同じ効果――
山なみや大海原のはるか彼方に翔け上がるような――を記している。
しかし阿片のときのヴィジョンは、夢の持っている、
こちらではどうにもならないという性質を持っている。

ところが小説は、まさに、統御された阿片の旅である。
それは広角的な意識を作り出す工夫なのである。


コリン・ウィルソン『小説のために -想像力の秘密』(鈴木建三訳・紀伊国屋書店 p.88)


2013年1月20日 (日)元投稿]
(「ココログ「としま腐女子のいろいろ読書ノート」より引っ越し)

2021/09/11

「ぼくとぼくの生きかたは…」



「ぼくとぼくの生きかたは
ぜんぜん反りが合ってないような気がする」
彼はつぶやいた。

「なにか言ったかね?」
老人が穏やかに尋ねた。

「ああ、いえ」とアーサー。
「ただの冗談です」


ダグラス・アダムス『銀河ヒッチハイク・ガイド』(安原和見訳・河出文庫)p.259)


2012年3月17日 (土)元投稿]
(「ココログ「としま腐女子のいろいろ読書ノート」より引っ越し)