散文は舞踊ではない。
散文は歩む。
そしてその歩み、あるいは歩み方によって、
その所属する種族が判明する。
頭に荷物をのせて運ぶあの住民に
ふさわしい均衡のように。
ここから次のようなことをぼくは考える。
つまり優雅な散文とは、
作家が頭の中で運んでいる
荷物の重みと相関するものであり、
これ以外の優雅さは
単に振付けの結果によるものに
過ぎないということだ。
ジャン・コクトー『言葉について』(秋山和夫訳:『ぼく自身あるいは困難な存在』所収・ちくま学芸文庫)pp.187-188
[2012年1月24日 (火)元投稿]
(「ココログ「としま腐女子のいろいろ読書ノート」より引っ越し)