読みやすさのために適宜改行や強調(太字化)を加えています。

2024/07/02

「ある一つの世界をとり囲んでいる雰囲気を」

 




ケルト神話は、音楽に満ちた夢のような体験についての忘れることのできない印象を残してくれている。つまり、音楽を奏でる木、果実、泉、石、網、聖歌隊、そして層をなす鳥たちに満ちた楽土(エリジウム)である。

こういったものを何かの象徴として、一つひとつ分析してもいいのだが、そうしてしまうと、ある一つの世界をとり囲んでいる雰囲気を、その本質やその内的一貫性ともども見失ってしまうことになるだろう。

水晶柱がいったい何を「意味する」のかと問うことは、パリを訪れた人がエッフェル塔の意味を問うのと同じくらい無意味なことだ。水晶柱とはまさしくそれ以外の何ものをも意味しない。その強烈なイメージこそがその意味そのものなのだ。



――ジョスリン・ゴドウィン 『星界の音楽:神話からアヴァンギャルドまで—音楽の霊的次元』(斉藤栄一訳・工作舎)p.86


*     *     *


本のテーマそのものからは外れるのですが、心に響きました。「研究」や「分析」になってしまうと失われるものがある、という感覚をずっと持っていたので、それをうまく表現してくださっているなあ、と。


本は少し昔(1990年発行)のもので、リアルタイムからこういう感じの本が好きでした。(うまく説明できないのですが、当時の工作舎さんや青土社さんの本によくあった感じ)。でも最近はこの手の本に入り込めないことが多く、この本もせっかく手に入れたのに数か月放置していました。(図書館で借りて少し読んで、「これは線を引きながら読みたい!」というモードになったから購入したのに…!)

でもゆっくりと、メモを取りながら(読み返すことはあまりなく、読んでいる時に理解や連想を着地させるためです)、辞書を引きながら、という昔やっていたような読み方をしたら、感覚がよみがえったのか、理解しながら——感じ取りながら——入り込むことができました。

引用部分は、まさにこの読書体験にも当てはまるように思います。そもそもこの本自体が、「役立つ情報」を得るとか、「内容を頭に入れて誰かに説明する」(本の内容を覚えるにはそれがいいそうですが)などという即物的な「ゴール」に向かって読む本ではありません。全身を委ねて埋没する時間自体を味わうような読書に向いている、と自分は思います。(文中にある「ケルト神話」も「そういうタイプのもの」ですね)

ある意味贅沢な体験で、逆に言うと最近の自分は「それ」ができていなかったのだと気づきました。「周囲を遮断した時間」が昔より取りにくいことも大きいですが、ビジネス書のようなものや、読書に「タイパ」を求める価値観(「2時間で読めました」が誉め言葉になるような)に、馴染めないながらも慣れ過ぎてしまったのかもしれません。「この手の本に入り込めなかった」のは、ある意味「精神の栄養失調」による症状だったのかも。ちょっと目が覚めたというか、深呼吸ができた感じがしています。

2024/03/17

「それが想像力の欠如をかくすアリバイにすぎないと。」

 

また図書館で借りた本です。(笑)

ノートを取ったことはあります。
「お前はああいう環境のことをなにひとつ知らない。
お前にはそれについて語る資格なんてない」

と思ったからです。

しかし私はいつもそのあとで気づきました。
それが想像力の欠如をかくすアリバイにすぎないと。

実を言えば、事物があるがままの姿で、人を感化するとか、
なにかを教えてくれるといったことさえ稀なのです。

私たちの頭脳の働きは、いささかコンピューターのそれに似ています。
ただ、入力は、私たちがわざわざやらなくても自然になされるんです。
そこから出てくるものが創造なのです。


――ジャン=ルイ・ド・ランビュール編 『作家の仕事部屋』(岩崎力訳・中公文庫)p.260-261 クリスチアーヌ・ロシュフォールのインタビューより


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ずっと密かに感じていたことを、ズバリと言い当てている言葉に出会いました。まさに冒頭部と同じことを思い、「情報を詰め込まなくては」と焦り、たらふく詰め込んでは何も書けなくなったことが幾度となくあります。そしてそれらの情報はすぐに忘れてしまい、身につくことはありませんでした。

ただ、それが想像力の欠如を隠す行為だということは、無名の創作者が言えばまるで「負け犬の遠吠え」で、「怠け者の自己弁護のように聞こえる」ことを怖れて言葉にできませんでした。

でもわが身を振り返ると、「情報を詰め込まなくては」という焦りは、自信が持てないときの、まさに「アリバイを用意しておかなくては」という恐れだったように思います。まるで「たくさん勉強したんだから偉いよね」と免罪符にでもできるかのように。そしてその虚しさも同時に感じていました。創作をするとき、やりたいのはそれではないからです。結果的に知識が増えるとしても、それが先ではないのです。今回見つけた言葉には救われました。

フィクションのレビューで、「よく調べて書いている」などと書かれていることがあります。自分の目には、ある意味最大の侮辱に見えます。でも世間一般では、「情報小説」のたぐいは評価が高く、上記も素直に誉め言葉のつもりで書かれているのかもしれません。しかし情報量と感動の大きさが比例するわけではありません。

量の多寡で何かを評価することの危うさが、ここにもあります。


2023/10/20

「最高の倫理とは予防的な倫理である。」

図書館で借りたので、タイトルが一部見えなくてすみません。


(AIについて)

ダニエル・デネットが適切に表現しているように、
私たちは「同僚ではなく、知的な道具」を作っているのであり、
その違いをしつかりと認識しなければならない。

(…)もし私たちが意図的であれ意図せずにであれ、
新しい形の主観的経験を世界に導入するとしたら、

私たちは前例のない規模の倫理的・道徳的危機に直面することになるだろう。

(…)生き物の苦しみを最小限に抑えるのと同じように、
そのような機械の潜在的な苦しみを最小限に抑える義務を負うことになるが、
(…)感じることのできる人工的な作用主については、
それらがどのような種類の意識を経験しているのか見当もつかないという難題もある。

(…)

興味があるから、役に立つから、かっこいいからという理由だけで、安易に人工知能を作ろうとしてはいけない。最高の倫理とは予防的な倫理である。


――アニル・セスなぜ私は私であるのか: 神経科学が解き明かした意識の謎』(岸本寛史訳・青土社)p.289-290


*     *     *


(図書館で借りて読了できないまま返却したのですが、印象的だったのでメモしました)

AIに意識が宿るか、というSF的な話題が普通のニュースになる時代になりました。たいていはヒトの側が被る影響ばかり気にされるけれど、まさに『2001年宇宙の旅』のHALが経験した恐怖——機械の側の「経験」が「見当もつかない」のは見逃されがちな視点です。(大昔、学校帰りに制服のまま『2001年…』を見た帰り道に、同行した友達と「あれだけの知能を与えておきながら人権を与えないなんて」と素朴に憤慨したのを思い出します)

私はストレートに人間のいわゆるロックト・イン(意識があるにもかかわらず、それを外部に示す機能が損なわれている状態)を連想してしまいました。はたから見ていても本人の経験、ひいては意識があるのかないのかもわからない、ということ。(※追記:じつは前の方を飛ばして先にこの章を読み、この原稿を書いてしまったので、あとから前半を読んだらロックト・イン(本では日本語訳の「閉じ込め症候群」)の事例にも言及していました。やはり「意識」を考える上では重要な関連事項ですね)

…我田引水で申し訳ありませんが、ちょうどこれあたる疑問を拙作『脳人形の館』で台詞にしていたので……お目汚しですが引用します。(シチュエーションは少し違い「肉体をなくした脳」なので、身体的なフィードバックがない点がロックト・インとは異なりますが、根本的には似た状況だと考えます)

  何かを考えているのか、
  夢でも見ているのか、
  …それともただ眠っているのだろうか?


意識ある主体にとって、「わかってもらえない・伝えられない」ということはやはり恐怖であり得ると思います。AIについては、そこまでを想像した「倫理的」問題提起は日頃の報道ではなかなか見かけませんね。

落ち着いて読む必要はありますが、視野が広がる一冊でした。未読了なので再度予約するか(順番待ちの方がたくさんいらして借り出し延長できなかったのです☆)、購入してしまうか…ちょっと悩みます。

2023/10/17

「九十秒間じっと待ちます。」

 

文庫が出ていますが、図書館で単行本を借りて読みました。


脳がとても批判的で非生産的な、
あるいは制御不能のループを働かせているとき、
わたしは感情的・生理的な反応が去っていくのを九十秒じっと待ちます。
それから、脳を子どもの集まりみたいなものだとみなし、誠意をもって話しかけます。
「いろんなことを考えたり、感じたりするあなたの能力はありがたいわ。
でもわたし、この考えや感じには、あまり興味がないの。
だから、もうこの話はおわりにしてちょうだい」。

ようするに、特殊な思考パターンとのつながりを断ち切るよう、
脳に頼んでいるわけです。
もちろん、人によって頼み方はちがうでしょう。
たとえば、「キャンセル! キャンセル!」という人がいるかと思えば、
「オレは忙しいんだよ!」と叫ぶ人もいるでしょう。(…)

――ジル・ボルト・テイラー 奇跡の脳』(竹内薫訳・新潮社)p.185-186
リンクは現在出ている文庫版ですが、引用ページは自分が図書館で読んだ単行本のものです。


*     *     *


前半は自ら脳出血を患った神経細胞学者の体験談で、読む前はその部分のイメージだけで手に取りました。(脳梗塞で軽度の麻痺が残る家族がいるので、理解を深めようと思ったのです)進行する症状を、脳のどの部分のダメージか意識しながらの体験談はそれだけでも貴重です。

ところが、印象に残ったのは、後半にある上記のような「自分の脳のしつけ方」の部分でした。ネガティブな思考のループにはまってしまうことは自分もよくあるのですが、それを制御できるというのです。しかも宗教やスピリチュアル的な世界観を受け入れる必要なしに

(後半のトーンは少しだけスピリチュアルな感覚に踏み込んでいるように見えるので、読みにくいと感じる方もおられるかもしれません。自分は昔それ系も読んだほうなので(笑)それほど抵抗はありませんでしたが、逆に途中で「そっちにいっちゃうのかー」と心配にもなりました。でも「そういうのも脳がこう働くから」という基盤があってのお話だったので、逆に宗教やスピリチュアル系はその「脳の働きの発露」を説明するための「例え話のバリエーション」なのかな、という理解になりました)

とにかくやってみたら本当で(本の言葉遣いをまねるのではなく、とにかく「これは脳が暴走してるだけ。やめやめ。」と意識するようにしました。最近は慣れてきて、「左脳ストップ!」の一言です(笑))、完全ではありませんが「はまってしまう」前に止められることがかなり多くなりました。脳を「子どもの集まりのようなもの」という例えも新鮮で、そう客観視できると感情に飲まれるのを防ぎやすくなる気がします。「ものの見方、感じ方で世界が変わる」とはよく言われることですが、実践方法がこんなにシンプルに書かれているとは。

ほかにも共感したり(特に入院中の扱われ方。自分も違和感や怒りを感じた経験があるので)、貴重な知識になったりした部分は多くありました。(同じ病気を患ったことがない)自分自身にも役立つ本」で、予想外の一冊でした。

2021/09/30

「読むことと書くことが同時に進みます。」



…すなわち、先ず、歴史家は資料を読み、

ノートブック一杯に事実を書きとめるのに長い準備期間を費やし、
次に、これが済みましたら、資料を傍へ押しやり、ノートブックを取り上げて、
自分の著書を一気に書き上げるというのです。

しかし、こういう光景は私には納得が行きませんし、
ありそうもないことのように思われます。

私自身について申しますと、
自分が主要資料と考えるものを少し読み始めた途端、
猛烈に腕がムズムズして来て、自分で書き始めてしまうのです。

これは書き始めには限りません。どこかでそうなるのです。
いや、どこでもそうなってしまうのです。

それからは、読むことと書くことが同時に進みます。
読み進むにしたがって、書き加えたり、削ったり、書き改めたり、除いたりというわけです。

また、読むことは、書くことによって導かれ、方向を与えられ、豊かになります。
書けば書くほど、私は自分が求めるものを一層よく知るようになり、
自分が見いだしたものの意味や重要性を一層よく理解するようになります。

恐らく、歴史家の中には、ペンや紙やタイプライターを使わずに、
こういう下書きはすべて頭の中ですませてしまう人がいるでしょうが、これは、(.中略..)

しかし、私が確信するところですが、歴史家という名に値いする歴史家にとっては、
経済学者が「インプット」および「アウトプット」と呼ぶような
二つの過程が同時進行するもので、
これらは実際は一つの過程の二つの部分だと思うのです。

みなさんが両者を切り離そうとし、一方を他方の上に置こうとなさったら、
みなさんは二つの異端説のいずれかに陥ることになりましょう。
意味も重要性もない糊と鋏の歴史をお書きになるか、
それとも、宣伝小説や歴史小説をお書きになって、
歴史とは縁もゆかりもないある種の文書を飾るためにただ過去の事実を利用なさるか、
二つのうちの一つであります。


――E. H. カー 『歴史とは何か』(清水幾太郎訳・岩波新書)p.37-38


2018年3月22日 (木)元投稿]
(「ココログ「としま腐女子のいろいろ読書ノート」より引っ越し)