…すなわち、先ず、歴史家は資料を読み、
ノートブック一杯に事実を書きとめるのに長い準備期間を費やし、
次に、これが済みましたら、資料を傍へ押しやり、ノートブックを取り上げて、
自分の著書を一気に書き上げるというのです。
しかし、こういう光景は私には納得が行きませんし、
ありそうもないことのように思われます。
私自身について申しますと、
自分が主要資料と考えるものを少し読み始めた途端、
猛烈に腕がムズムズして来て、自分で書き始めてしまうのです。
これは書き始めには限りません。どこかでそうなるのです。
いや、どこでもそうなってしまうのです。
それからは、読むことと書くことが同時に進みます。
読み進むにしたがって、書き加えたり、削ったり、書き改めたり、除いたりというわけです。
また、読むことは、書くことによって導かれ、方向を与えられ、豊かになります。
書けば書くほど、私は自分が求めるものを一層よく知るようになり、
自分が見いだしたものの意味や重要性を一層よく理解するようになります。
恐らく、歴史家の中には、ペンや紙やタイプライターを使わずに、
こういう下書きはすべて頭の中ですませてしまう人がいるでしょうが、これは、(.中略..)
しかし、私が確信するところですが、歴史家という名に値いする歴史家にとっては、
経済学者が「インプット」および「アウトプット」と呼ぶような
二つの過程が同時進行するもので、
これらは実際は一つの過程の二つの部分だと思うのです。
みなさんが両者を切り離そうとし、一方を他方の上に置こうとなさったら、
みなさんは二つの異端説のいずれかに陥ることになりましょう。
意味も重要性もない糊と鋏の歴史をお書きになるか、
それとも、宣伝小説や歴史小説をお書きになって、
歴史とは縁もゆかりもないある種の文書を飾るためにただ過去の事実を利用なさるか、
二つのうちの一つであります。
――E. H. カー 『歴史とは何か』(清水幾太郎訳・岩波新書)p.37-38
[2018年3月22日 (木)元投稿]
(「ココログ「としま腐女子のいろいろ読書ノート」より引っ越し)