「ぼくとぼくの生きかたは
ぜんぜん反りが合ってないような気がする」
彼はつぶやいた。
「なにか言ったかね?」
老人が穏やかに尋ねた。
「ああ、いえ」とアーサー。
「ただの冗談です」
ダグラス・アダムス『銀河ヒッチハイク・ガイド』(安原和見訳・河出文庫)p.259)
「ぼくとぼくの生きかたは
ぜんぜん反りが合ってないような気がする」
彼はつぶやいた。
「なにか言ったかね?」
老人が穏やかに尋ねた。
「ああ、いえ」とアーサー。
「ただの冗談です」
ダグラス・アダムス『銀河ヒッチハイク・ガイド』(安原和見訳・河出文庫)p.259)
散文は舞踊ではない。
散文は歩む。
そしてその歩み、あるいは歩み方によって、
その所属する種族が判明する。
頭に荷物をのせて運ぶあの住民に
ふさわしい均衡のように。
ここから次のようなことをぼくは考える。
つまり優雅な散文とは、
作家が頭の中で運んでいる
荷物の重みと相関するものであり、
これ以外の優雅さは
単に振付けの結果によるものに
過ぎないということだ。
ジャン・コクトー『言葉について』(秋山和夫訳:『ぼく自身あるいは困難な存在』所収・ちくま学芸文庫)pp.187-188
「人を愛し賛美するのは弱さじゃないわよ!」
「だけど愛され賛美されたいと思うのは弱さよ、ネル――私みたいな芸術家肌の人間が毒されやすい感情よ。(……)」
(アイリーン・アドラーの台詞より)
キャロル・ネルソン・ダグラス『おやすみなさい、ホームズさん(下)』(日暮雅通訳・創元推理文庫)p.221
…天才のもつ健全な自惚がロレンスに欠けていたことが、
かれの生涯を悲劇的な浪費におわらせた根本原因の一つである。
(中略)ケニントンは、まったく他人の、
千里眼のきく老教師に『智慧の七本の柱』を
見せたときのことをこう述べている。
それを読んでの教師の感想は――
「この本を読んで、わたしは胸が痛んだ。
これを書いた人は、わたしの知るかぎりでは
もっともずばぬけた大人物だが、
この人はおそろしくまちがっている。
自分が自分でないのだ…(中略)
わたしは心配でならない。
この人は行動のなかで生きてはいない。(中略)」
この感想は、ロレンスの根底を衝いているのみか、
「アウトサイダー」一般の性格を的確に表現している。
「この人は行動のなかで生きていない」――
まさにムルソーとクレブスである。
「自分が自分でない」という言葉の意味は、さらに深い。
自分がもっとも自分となるような、
つまり最大限に自己を表現できるような
行動様式を見出すのが
「アウトサイダー」の仕事であることを、
この一言は意味している。
コリン・ウィルソン『アウトサイダー』「Ⅳ制御への試み」より、T.E.ロレンスについての分析(引用は1957年刊・福田恒存/中村保男訳・紀伊国屋書店版 p.73より)
私の深い悲しみの庭の中に
ああ 見捨てられた私の心よ、おまへもおんなじだ、
かまひてもないが凋(しぼ)みもしない
この貧しい詩の花も さうなのだ
とぢてしまつたおまへの眼を、昔うれしがらせたこの花を、
おまへの墓場に植ゑさせてくれないか。
よしや咲きさかる時がなからうとも、
枯らすなら おまへの墓場で枯らしたいから
テニスン『イン・メモリアム』 No.8より(入江直祐訳・岩波文庫)p.40
(早世した親友アーサー・ハラムを悼む詩の一部です)